正月が終わった。
あのおみくじの「大吉」の興奮も冷め、我が家にはまた、重苦しい日常が戻ってきた。
元旦には親戚と笑っていた息子。
しかし、連休後半になるにつれ、また部屋に籠もる時間が長くなった。
昼夜逆転気味のリズム。
ゲームの音だけが響く廊下。
「3学期から学校へ行く」
あの言葉は、嘘だったのか?
俺の中で、抑え込んでいた「不安」という名の猛獣がまた暴れだした。
「見守る」という名の地獄
不登校の親なら、誰でも一度は言われる言葉がある。
「焦らせず、お子さんを見守りましょう」
俺もそうしようと決めた。
でも、問いたい。
「見守る」と「ただの放置」の違いは何だ?
何も言わず、腫れ物に触るように接し、昼まで寝ている息子を横目で見ながら仕事に行く。
これは「見守り」なのか?
それとも、親が楽をするための「放置(ネグレクト)」なのか?
3学期という「タイムリミット」
特に今は時期が悪い。
もうすぐ3学期が始まる。ここで行けなければ、**「留年」**という現実が確定する。
「見守っている間に、取り返しのつかないことになるんじゃないか?」
「俺が何もしないせいで、息子の人生が詰むんじゃないか?」
この恐怖で、夜も眠れなくなる。
おみくじで「大吉(病気は治る)」が出ても、現実の時計の針は止まってくれない。
親父ができる唯一の「攻めの見守り」
不安で押しつぶされそうな時、俺はある一つの事実に気づいた。
俺が不安なのは、**「息子が動かないから」**ではない。
**「もしダメだった時の『次の一手』を持っていないから」**だ。
息子を動かそうとするから苦しいのだ。
親がやるべきは、息子を操作することじゃない。
「最悪の事態(留年・退学)」になっても、「大丈夫、こっちの道があるぞ」と即座に言える準備をしておくことだ。
俺はこれを「攻めの見守り」と呼ぶことにした。
具体的な準備こそが、精神安定剤になる
俺は再び、机の奥にしまっていた**「通信制高校のパンフレット(ズバット)」**を取り出した。
転校させるためじゃない。
「今の高校にしがみつかなくても、こんなに楽しそうな学校がある」という事実を、俺自身が再確認するためだ。
• 今の高校に戻れたら、それが一番いい(プランA)。
• でも、もしダメでも、この「プランB」がある。
この資料が手元にあるだけで、不思議と息子を見る目が優しくなれる。
「起きろ!」と怒鳴りたくなる気持ちを、「まあ、いざとなれば別の道もあるしな」と飲み込める。
これが、「放置」と「見守り」の決定的な違いだ。
親が水面下で、命綱を用意しているかどうか。
新学期に怯える同志たちへ
3学期が怖いのは、子供だけじゃない。親だって怖い。
だからこそ、親は「武器(情報)」を持とう。
もし今、あなたが「見守る」という言葉に疲れ果てているなら、悪いことは言わない。
今のうちに「次の場所」の資料だけでも取り寄せてみてほしい。
それは決して「逃げ」じゃない。
どっしりと構えて見守るための、**親にとっての「精神安定剤(お守り)」**なのだ。
※俺が実際に救われた「お守り」はこれだ。入力1分で、親の心の余裕が手に入る
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