先日、顧問の社労士から届いた一通のメールに、正直言って背筋が寒くなった。「労基署から定期監督の連絡が入りました」――たったそれだけの文面だったが、自分の頭の中では一瞬でいくつものシナリオが再生された。タイムカードの打刻漏れ、みなし残業の運用ミス、管理職扱いにしている社員の実態。うちはブラックじゃない、そう思い込んでいた自分にとって、この一通は「本当にそうか?」と胸ぐらを掴まれるような一撃だった。
結論から言うと、今回は書類の不備を指摘される程度で大事には至らなかった。だが、あの数日間で調べた数字は、経営者として忘れてはいけないものだったので、ここに書き残しておく。
創業してから今まで、社員には胸を張って給料を払ってきたつもりだった。だが「つもり」というのは、経営において一番信用できない言葉だ。決算書の数字は嘘をつかないが、「うちはちゃんとやっている」という感覚は、放っておくと簡単に現実とズレていく。今回の一件は、そのズレを自分自身の目で確かめる、いい機会になった。
令和5年、全国で2万件超の「賃金不払い」
厚生労働省が公表している「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果」によると、令和5年中に全国の労働基準監督署が取り扱った賃金不払事案は21,349件、対象となった労働者数は181,903人、金額にして101億9,353万円にのぼる(出典: 厚生労働省)。このうち労基署の指導によって実際に支払いに至ったものだけでも20,845件・92億7,506万円という規模だ。
前年比で見ると件数はさらに818件増えている。景気が持ち直し、残業そのものが増えている業種があることに加え、退職者が労基署に駆け込むケースが増えている印象も現場では強い。うちの会社が特別に危ないわけではない。どの会社にも起こりうる話として、この数字を受け止める必要がある。
野球で言えば、これは「エラーの記録」に近い。派手なホームランや逆転劇の裏で、地味なエラーの積み重ねがチームの信頼を静かに削っていく。未払い残業代も同じで、経営者が意識していない打席で、じわじわと失点が積み上がっている。しかも厄介なのは、エラーと違って審判がすぐにコールしてくれるわけではないという点だ。数年分の失点が、ある日突然まとめてスコアボードに反映される。それが未払い残業代という問題の本質的な怖さだと自分は思っている。
なぜ経営者は「うちは大丈夫」と思い込むのか
自分自身も含めて、多くの経営者が「うちは大丈夫」と思い込む理由には、共通のパターンがある。一つは、社員からの不満の声が直接届かないことだ。現場の不満は、経営者に届く前に管理職の段階で止まってしまうことが多い。もう一つは、創業当初からのやり方をそのまま引き継いでいることだ。会社が小さかった頃の「みんなで頑張ろう」という空気のまま、労務管理の仕組みだけがアップデートされずに残ってしまっているケースは珍しくない。
自分の会社も、規模が大きくなる過程で就業規則や勤怠管理のルールを何度か見直してきたつもりだったが、今回の一件で「つもり」と「実態」の間にズレがあったことを思い知らされた。特に、繁忙期に発生する持ち帰り仕事や、始業前の準備時間の扱いなど、グレーゾーンになりやすい部分ほど見落としやすい。
「36協定を結んでいるから大丈夫」という誤解
多くの経営者が引っかかる誤解がここにある。36協定(時間外労働・休日労働に関する協定届)を労基署に届け出ていれば、残業させても問題ないと思い込んでいるケースだ。だが36協定はあくまで「残業させてもいい上限時間」を定める手続きであって、残業代を支払わなくていいという話とはまったく別物だ。
さらに2019年の働き方改革関連法以降、36協定には罰則付きの上限規制がかかっている。原則月45時間・年360時間、特別条項付きでも年720時間、単月100時間未満、複数月平均80時間以内という縛りがある。これを超えれば、たとえ協定を結んでいても違法残業になる。
自分の実感としては、この上限規制よりも現場で問題になりやすいのは「みなし残業(固定残業代)制度の運用ミス」だ。固定残業代を導入している会社は多いが、想定時間を超えた分を追加で支払っていなかったり、そもそも基本給と固定残業代の内訳が就業規則・雇用契約書に明記されていなかったりするケースが後を絶たない。この場合、固定残業代そのものが無効と判断され、遡って全額を通常の残業代として計算し直されるリスクがある。打率で言えば、四球のつもりで見逃していた球が実は失投で、後から「あれはボール球じゃなかった」と判定が覆るようなものだ。
経営者にとっての本当の怖さは「金額」より「信用」
未払い残業代が発覚した場合、経営者が恐れるべきは支払う金額そのものよりも、その後に起きる連鎖だと自分は思っている。
一つは、遡及支払いの範囲だ。労働基準法上、賃金請求権の消滅時効は現在3年(将来的には5年への移行も議論されている)。つまり発覚した時点で、最大3年分をまとめて支払う義務が生じる可能性がある。資金繰りに余裕のない中小企業にとって、これは一括で襲ってくる想定外の大型出費になる。黒字で経営していても、この一撃で資金繰りが一気に苦しくなった会社を自分は何社か知っている。
もう一つは、採用と定着への影響だ。今は求人票や口コミサイトに「残業代の未払いがあった会社」という情報が驚くほど早く回る時代だ。若い世代ほど、給与額そのものより「ちゃんと払われるかどうか」を見ている。ここで信用を落とすと、次の採用戦線で確実に不利になる。息子たちの世代を見ていても、条件の良し悪し以上に「ちゃんとしているかどうか」を敏感に嗅ぎ分けている感覚がある。
三振は一度で終わるが、信用の失墜は次の打席、その次の打席にまで影響する。ここが未払い残業代というエラーの一番厄介なところだ。
変形労働時間制という、もう一つの落とし穴

固定残業代の運用ミスと並んで、現場で見落とされがちなのが「変形労働時間制」の扱いだ。繁忙期と閑散期がはっきりしている業種では、1ヶ月単位や1年単位で労働時間を調整できるこの制度を導入している会社は多い。だが、この制度は労使協定の締結・届出、シフト表の事前確定と周知、それに沿った運用という条件をすべて満たして初めて有効になる。
自分が話を聞いた別の経営者は、繁忙期にシフトを直前で変更することが常態化しており、結果的に変形労働時間制そのものが無効と判断され、通常の法定労働時間を基準に残業代を再計算する羽目になったという。制度を導入していることと、それが正しく機能していることは、まったく別の話だ。契約書や協定書は交わしたが実態が伴っていない、という状態は、野球で言えば練習メニューだけ立派で、実際の守備位置がバラバラなチームのようなものだ。書類上は整っていても、試合になれば穴が露呈する。
経営者として、自分がやったこと
社労士からの連絡を受けて、自分がまず着手したのは次の3つだった。
打刻データと申告時間の突き合わせ。勤怠管理システムの記録と、実際に支払っている残業代の計算根拠にズレがないかを全員分チェックした。「サービス残業のつもりはなかったのに、結果的にそうなっていた」という箇所が実際に見つかった。
管理監督者の実態確認。役職名だけで「管理職だから残業代は不要」と扱っていないか。労働基準法上の管理監督者に該当するには、経営者と一体的な立場にあること、出退勤の自由があること、それに見合う待遇があることなど、実態面での要件がある。役職名だけで判断するのは非常に危ない。
就業規則と固定残業代の記載の見直し。固定残業代を導入している場合、何時間分をいくらで固定しているのか、超過分はどう精算するのかを、雇用契約書と就業規則の両方に明記し直した。
正直、面倒な作業だった。だが、この確認作業をサボった代償は、三振では済まない。相手チームに大量失点を許すビッグイニングになりかねない。
息子たちが働く側になる日を想像してみる
自分には高2と中2の息子がいる。あと数年もすれば、どちらかがアルバイトを始め、いずれは正社員として社会に出ていく。そのとき、彼らが働く会社が残業代をきちんと払う会社であってほしいと、親として当たり前に願っている。
その視点に立つと、自分の会社が同じことをできているかを問い直さざるを得なくなる。経営者としての立場と、いずれ働く側になる息子を持つ親としての立場。この二つを行き来しながら考えると、未払い残業代という問題は、単なる法令遵守のチェック項目ではなく、「自分がされて困ることを、社員にしていないか」という、もっと根本的な問いに変わってくる。
野球部の監督が選手に無理な連投をさせないのと同じ理屈だ。目先の勝利のために選手の肩を消耗させれば、その選手は長くは持たない。長く共に戦ってくれるチームを作るためには、目先のコストよりも、正しいルールの上で戦う土台を整えることの方が、結局は投資対効果が高い。
見えない敵を、見える化する
経営者として一番怖いのは、悪意を持って残業代を払わないことよりも、「知らないうちに」未払いを積み重ねてしまうことだ。自分自身、今回の件でそれを痛感した。
打席に立つ前に、まずは自分のバットとルールブックを確認する。当たり前のようで、経営が忙しくなるほど後回しになりがちな作業だ。だが、このチェックを怠ったツケは、資金繰りにも、採用にも、社員との信頼関係にも、静かに、しかし確実に効いてくる。
うちのチームを守れるのは、結局のところ自分しかいない。そう思って、今日もまた地味な確認作業を続けている。

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