「お客様は神様」に社員を差し出していないか。2026年10月義務化のカスハラ対策で、経営者が今すぐ動くべき理由
数年前、自分の会社の若い社員が、電話口で30分以上、取引先から怒鳴られ続けていたことがあった。
内容を後で聞くと、こちらのミスは確かにあった。だが謝罪して、対応策を提示した後も、相手は同じ罵声を延々と繰り返すだけだった。「誠意を見せろ」「社長を出せ」。電話を切った後、その社員はしばらく席に戻れなかった。
自分は当時、正直どう対応していいか分からなかった。お客様相手だ、下手に出るしかない。そう思い込んでいた自分がいた。だが今振り返ると、あれは完全に「攻撃」だった。うちのミスへの正当なクレームと、人格を潰しにかかる怒声とは、まったく別物だ。その線引きを、経営者である自分が社員に示せていなかった。
2026年10月、カスハラ対策が法律で義務化される
これは自分の会社だけの話ではなくなる。2026年10月1日、改正労働施策総合推進法が施行され、カスタマーハラスメント(カスハラ)防止のための雇用管理上の措置を講じることが、すべての事業主に義務付けられる。
出典: 厚生労働省「令和7年労働施策総合推進法等の一部改正について」
ポイントは、この義務化に猶予措置がないということだ。従業員数十人の中小企業だろうと、家族経営に近い小さな会社だろうと、労働者を1人でも雇っていれば対象になる。「うちは大企業じゃないから関係ない」という言い訳は、10月以降は通用しなくなる。
数字で見る、カスハラという「見えない敵」
自分がこの問題を軽く見ていたのは、どこかで「たまたま運が悪かった一件」だと処理していたからだ。だが実態調査を見ると、これは決して特殊な話ではない。
厚生労働省の「職場のハラスメントに関する実態調査」(令和5年度)によると、過去3年間に労働者から「顧客等からの著しい迷惑行為」の相談を受けたことがある企業の割合は27.9%。前回の令和2年度調査から8.4ポイント増加している。
出典: 厚生労働省「職場のハラスメントに関する実態調査」(令和5年度)
さらに東京都が2026年3月に公表した調査では、過去1年間にカスハラの「被害にあった」と答えた従業員は11.9%。その内容として最も多かったのが「継続的な、執拗な言動」で61.6%を占めている。
出典: 東京都「カスタマーハラスメントに関する実態調査の結果」(2026年3月)
一度きりの暴言より、じわじわと繰り返される攻撃の方が多いという事実は、経営の現場感覚とも一致する。うちで起きたあの電話も、実はその日が初めてではなかった。
東京都はすでに2025年4月、全国に先駆けて「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」を施行している。国の法改正はその流れを全国レベルに広げるものだ。
守備の陣形がないチームは、どんな好投手でも潰れる
野球で言えば、これは「守備の陣形」の話だと自分は思っている。
どれだけ気迫のあるピッチャーでも、後ろの守備がバラバラで連携も取れていなければ、簡単に崩れる。エラーが続けば、どんなに精神力のある選手でも自信を失っていく。監督の仕事は、選手個人の根性に頼ることではなく、事前に守備位置を決め、連携のルールを共有し、想定外の打球にも対応できる型を作っておくことだ。
カスハラ対策も同じだと思う。「そのときは店長判断で」「とにかく丁寧に謝って」という曖昧な指示だけでは、現場の社員は一人で殴られ続けるしかない。事前に「ここから先は組織として対応する」というラインを決め、社員に周知しておくことが、経営者の守備位置の設計だ。
中小企業の経営者が、10月までに準備すべきこと

法改正の詳細を調べて、自分が最低限やるべきだと考えたのは次の点だ。
①相談窓口の明確化
社員が「これはカスハラかもしれない」と感じたとき、誰に、どう相談すればいいかを決めておく。担当者が社長一人しかいない小規模な会社でも、「まず社長に報告する」というルート自体を明文化しておくだけで違う。
②対応方針・マニュアルの整備
「土下座を要求された」「長時間の拘束」「暴言の繰り返し」など、どのラインを超えたら対応を打ち切る・警察や弁護士に相談するかを、あらかじめ決めておく。現場任せにしないことが重要だ。
③社員への周知・研修
制度を作っても、社員が「会社は自分を守ってくれる」と知らなければ意味がない。「理不尽な要求には、一人で我慢しなくていい」と、経営者の口から直接伝えることに価値がある。
④相談者のケア
被害にあった社員への精神的なフォロー体制も、義務化の対象に含まれる。怒鳴られた後、何事もなかったかのように次の電話を取らせる運用は、もう見直す時期に来ている。
「理不尽に耐えることが美徳」だった時代は、もう終わっている
自分が高校球児だった頃、理不尽な指導に歯を食いしばって耐えることが、根性の証明だと信じられていた時代があった。声を荒げられても、殴られても、「打たれ強さ」として評価される空気があった。今の高校野球では、そのやり方はとっくに否定されている。
会社の中も同じ構造の変化が起きているのだと思う。理不尽な客に耐え続けることが「営業マンの根性」だと語られていた時代は終わりつつある。自分がかつて社員に対して「お客様相手だから我慢してくれ」と言外に求めていたのは、あの頃の指導と同じ発想だったと、法改正のニュースを調べながら気づかされた。時代が変われば、耐えることは美徳ではなく、放置というリスクに変わる。
対策を怠ることの本当のコストは、離職という形で返ってくる
経営者目線でもう一つ言っておきたいのは、これは「社員に優しくするかどうか」という情の話だけではなく、純粋に経営リスクの話でもあるということだ。
理不尽な要求に晒され続けた社員が、会社に見捨てられたと感じたとき、その社員は静かに辞めていく。しかも辞めるのは、たいてい現場で踏ん張ってくれていた、辞めてほしくない人材からだ。採用コストや教育コストを考えれば、カスハラ対策への投資は、離職防止への投資でもある。
自分の会社でも、あの電話の一件の後、その社員が「もう電話対応は無理かもしれません」と漏らしたことがあった。幸い、担当を一時的に変えて事なきを得たが、対応が一歩遅れていたら辞めていたかもしれない。中小企業にとって、一人の退職が生む穴は、大企業のそれよりずっと深い。
求人票に「カスハラ対策実施企業」と書ける時代が、もうすぐそこまで来ている。人手不足に悩む中小企業ほど、この義務化を後ろ向きな負担ではなく、採用力を上げる武器として捉え直した方がいい。
お客様対応の質を落とさずに、社員を守る
誤解してほしくないのは、カスハラ対策は「お客様への対応を雑にする」こととは違うということだ。正当なクレーム、こちらの落ち度に対する厳しい指摘には、これまで通り真摯に向き合う必要がある。
線引きすべきは、あくまで人格否定・威圧・長時間拘束といった「行為」の部分だ。野球で言えば、審判の判定に異議を唱えることと、審判に胸ぐらを掴みかかることはまったく別の話であるのと同じだ。前者はゲームの一部として受け止め、後者はルールに則って退場を命じる。この線を経営者自身が曖昧にしたまま現場に丸投げしていることが、一番の問題だと自分は思う。
「お客様は神様」の呪縛を、自分たちの手で解く
正直に言うと、自分は長らく「クレームには下手に出て、とにかく穏便に」という発想から抜け出せずにいた。それが誠実な商売のやり方だと思い込んでいた。
だが理不尽な攻撃にまで頭を下げ続けることは、誠実さではない。それは、目の前で部下が殴られているのに、監督が「我慢しろ」とベンチから眺めているのと同じだ。
2026年10月の法改正は、経営者に「もう見て見ぬふりはできない」という強制力を与えてくれる、と自分は前向きに捉えている。制度を言い訳にしてもいい。「法律で決まったので」の一言があれば、これまで角が立つと避けてきた線引きも、堂々と示せるようになる。
自分の会社でも、次に同じ場面が来たら、今度は迷わず「ここから先は、組織として対応します」と言えるようにしておきたい。
※本記事の内容は一般的な情報提供を目的としており、個別の法的判断については専門家にご確認ください。

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